椎名林檎という私のミューズについて語らせてくれないか
私は一人の女性が自らをプロデュースする「椎名林檎」という人物像を愛しているのだ。とりあえず、以下のLive動画を見てほしい。
(OPからEDまで一貫してクライマックス、という矛盾を強引に成立させてくる椎名林檎。強すぎる)
客席が水面下で波の一部となり、彼女はそのゆらめく電子の波を掻き分けて登場するわけだ。この演出が彼女を体現しているのはもちろんだが、これほどまでに「椎名林檎」という人物頼みの演出があるだろうか。
「椎名林檎」という存在が唯一無二であることが大前提でこの演出は成立しているのだと私は考える。というのも、椎名林檎がこの演出に負けてないからだ。違和感が微塵もない。むしろこの水の中から現れる演出の為に椎名林檎はあるんじゃないのか…と思わせる。
椎名林檎はこの曲を歌うために、この演出のために生まれてきたんだな、と我々に思わせてくれる。それも、毎回である。我々の前に椎名林檎が現れるたびに椎名林檎は更新されていくのだ。変化をやめない「椎名林檎」であり続けることは彼女にとって、どれほど大変なのだろうか。
「流行」で椎名林檎はこう歌う。
「女の私に個性はいらない 名前は一つでいい これ以上要らない」
彼女は「椎名林檎」という名だけで表現者足りうるのだ。なぜなら、「椎名林檎」は変化の求道者。変化をやめたとき「椎名林檎」は終わるのだと思う。
彼女は「よくイメージ変わるから、それが椎名林檎だと認識できない」と言われることが多い。
それは彼女にとって最大級の誉め言葉なのではないか。
最後に、「椎名林檎」を演じる彼女の最高にクールな「丸の内サディスティック」mixをこの記事の結句とさせていただきたい。
散々言葉を連ねてきたが、やはり「椎名林檎」は体感するものだろう。
ジェニという私のミューズについて語らせてくれないか
BLACKPINKのジェニー(JENNIE)は男性が望む理想の女性でありながら、女性が焦がれる女性でもある、非常に稀有な存在であると思う。多くの人間が彼女という存在に熱をあげる。かく言う私もそのうちの一人であるのだが。
ではなぜ、我々はこんなにも彼女に魅せられるのだろうか。
제니 (JENNIE) - SOLO 교차편집 (Stage Mix)
(私はK‐POPアイドルのstage mixを見るのが趣味なのだが、このmixは至高。)
その理由として、彼女は「生きている女の美しさたるや」を我々に伝えてくれるから、ということが挙げられると私は思う。
彼女は抜群のスタイルを持ち、鮮やかなメイクとゴージャスな衣装が似合う。ステージではとびっきりの人を寄せ付けぬ圧倒的オーラを身にまとい、圧倒的に美しい。
しかし、彼女は良い意味でお人形のような美しさを放つのではない。彼女はエネルギッシュで、生命力あふれる人である。あくまでクールなビジュアルであるのに、溌剌とした、みずみずしい美しさを放っている。それこそが彼女の魅力なのである。
時に人間臭いのに、それがまるで生きている証かのようにきらめいている。どんな表情も見せてくれる彼女は自身の人生を謳歌しているように見えるのだ。それが我々に火をつける。
彼女は命の火を他の人より激しく燃やし、生きているように私には見える。そんな人生を全力疾走で駆け抜ける人間に、少しでも目を離せば容赦なく置いていきそうな勢いの人間に我々は惹かれるのだ。
その身を燃やしながら、涼しい顔をして人間賛歌を我々に教えてくれる彼女。
火を燃やし続けるのをやめない彼女が倒れそうになったら、我々は燃料をむやみに彼女に差し出すのではなく、彼女を抱きとめるべきだろう。
しかし、彼女の生命の火は止まることを知らない。そんな美しく燃え続ける彼女を見続けたい、というエゴを抱えながら今日も私は炎のような彼女を愛で続ける。