朝夏まなとと真風涼帆の愛し方

朝夏まなとと真風涼帆の「まぁまか」コンビが人気を博したのは記憶に新しい。このコンビへの信頼があったからこそ、劇団は「朝夏まなとトップ娘不在退団」を推し進めていくことができたのだと私は思う。

 

では、如何にして「まぁまか」は成りえたのか。

二人は精神的には似通っているが、外見的にはかなり違っている。

これが、宝塚のトップ二番手コンビの一つの有効なあり方であり、これこそがまぁまかの肝である。

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Shakespeare』においてはビジュアルの相反が目立ったが、それ以上に二人の「違っているのに似ている」という不思議な親和性が見て取れた。

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「違っているのに似ている」とは説明を補うと、「(容姿が)違っているのに(心が)似ている」となる。

まず、互いに異なった華やかさを持つので舞台で輝きが被ることはない。トップと二番手として双方の魅力が確実に機能するのはまぁまかのようなタイプである(もちろんこの手のコンビが正義というわけではなく、コンビに正解などない)。

 

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丸顔で大きい目を持つ朝夏まなと、面長で切れ長な目を持つ真風涼帆。

ここまで二人の美のあり方の素晴らしさについて記述してきたが、私が本記事で一番伝えたいことは、まぁまかは二人の心と愛によって成立し得たということである。

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二人の美しさの調和についてはまた別の機会に詳しく解説する予定。


二人が心を通わせられたのは、二人の愛が同じ質感だったからだろう。

両者共に愛を分け与えるタイプであり、どちらかと言えば自己犠牲的精神が働くような性格だと私は考えている。

そういう意味で、愛の質感が似ているのだ。二人の愛し方には親和性がある。だから、極度に互いが依存しあう関係でなく、傍から見れば非常に涼やかな関係に見える。それは、互いが互いを思いやっているからだろう。

 

もちろん、朝夏と真風の宝塚人生に共通点が多かったことなど、シンパシーを感じる部分は多々ある。

でも、二人は対人における愛し方が似ているから。この部分がやはり一番大切なのではないか。

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孤独であることを認め合うのではなく、孤独なんてやめてしまえ、というスタンスが実に二人らしい。

自己犠牲を省みない人が唯一頼ることができたのが、奇しくも同じような自己犠牲を省みない人だったのは、皮肉にも必然だったのだろう。

 

お互いに都合の良い相手か、いや、そんな生半可な関係じゃないだろう。

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心中できるくらいには心が通じあっているのに、絶対心中なんかしない、と言わんばかりの気概を感じる。

人を愛する際に自分を蔑ろにしがちな二人が、ただ一度、自分を大事にすることができたのかもしれない。

自分を愛することで他人を真に愛することができるのだから、二人がこの世界で巡り合えて本当に良かったと常々思う。