玉津島の深き入江にて

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”明日海りお”に依存する我々は何処へ(上)

明日海りおは永遠に"そこにある"のだと思っていた。

なぜか。彼女が自分自身でなく、敢えて我々に明日海りおの造形を任せたからではないか。

だからこそ今回のレビューの歌詞は私にとって衝撃的であった。ついに彼女自身が"明日海りお"の定義付けを行ったと見せかけているが、その真偽はわからないからだ。少々哲学的になってきたが、単純明快な例があるので暫しお付き合いいただきたい。

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どこまでも偶像的なタカラジェンヌである。最後まで人間味があるようで、ない。

「そろそろ夢から覚める時間 そうなのかも」
主語は一見、”明日海りお”であるかのように見える。しかし、この歌詞における主語は”我々”にも代替可能なのである。しかも、明日海りおの夢から覚めるのは”さゆみさん”ということも考えられる。

夢から覚めるのが誰かは結局のところわからないが、私は明日海りおを抜きにした彼女自身と我々が”明日海りお”という夢から覚める、という仮説を打ち出したい。この仮説を考えたとき、なんておぞましい歌詞を書くのだ先生は、と思った。なぜならこの歌詞は”明日海りお”という概念はあまりにも我々の間で肥大化しすぎた、ということを証明するからである。

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明日海りおという概念は、あまりにも育ちすぎて。明日海りおは半ば神格化された、と言っても過言ではない。

”明日海りお”は我々の執着と、さゆみさんの異常なまでの執着の無さからここまで大きくなった、と私は考えている。もちろん彼女の男役、花男タカラジェンヌへのこだわりは尋常ではないのだ。しかし、さゆみさんが明日海りおであること、へのこだわりは我々が生み出してしまったのではないか。そして、さゆみさんがそれを静観していたことが拍車をその勢いに拍車をかけた。

結果、”明日海りお”はさゆみさんも我々も手の届かぬところまで大きくなった。これは我々とさゆみさんの功罪である。

この現状に終止符を打てる方法は、我々とさゆみさんの双方が同じ働き掛けをすることしか残されていなかった。
だから上記の歌詞が生まれた、と私は推測する。

そして、明日海りおはあまりにも我々にとって大きすぎたゆえ、計り知れぬ喪失感が我々を襲っているのである。
この絶望に等しい喪失感は、自分たちのせいなのだ。明日海りおを神格化しすぎた我々へのしっぺ返しなのだ。

しかし、最後まで慈悲を感じさせる歌詞でこの歌は締めくくられるのである。 (下へ続く)

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明日海りおは上下で語れるほどの存在ではないと思いますが、一応次で終わらせます。