椎名林檎という私のミューズについて語らせてくれないか
私は一人の女性が自らをプロデュースする「椎名林檎」という人物像を愛しているのだ。とりあえず、以下のLive動画を見てほしい。
(OPからEDまで一貫してクライマックス、という矛盾を強引に成立させてくる椎名林檎。強すぎる)
客席が水面下で波の一部となり、彼女はそのゆらめく電子の波を掻き分けて登場するわけだ。この演出が彼女を体現しているのはもちろんだが、これほどまでに「椎名林檎」という人物頼みの演出があるだろうか。
「椎名林檎」という存在が唯一無二であることが大前提でこの演出は成立しているのだと私は考える。というのも、椎名林檎がこの演出に負けてないからだ。違和感が微塵もない。むしろこの水の中から現れる演出の為に椎名林檎はあるんじゃないのか…と思わせる。
椎名林檎はこの曲を歌うために、この演出のために生まれてきたんだな、と我々に思わせてくれる。それも、毎回である。我々の前に椎名林檎が現れるたびに椎名林檎は更新されていくのだ。変化をやめない「椎名林檎」であり続けることは彼女にとって、どれほど大変なのだろうか。
「流行」で椎名林檎はこう歌う。
「女の私に個性はいらない 名前は一つでいい これ以上要らない」
彼女は「椎名林檎」という名だけで表現者足りうるのだ。なぜなら、「椎名林檎」は変化の求道者。変化をやめたとき「椎名林檎」は終わるのだと思う。
彼女は「よくイメージ変わるから、それが椎名林檎だと認識できない」と言われることが多い。
それは彼女にとって最大級の誉め言葉なのではないか。
最後に、「椎名林檎」を演じる彼女の最高にクールな「丸の内サディスティック」mixをこの記事の結句とさせていただきたい。
散々言葉を連ねてきたが、やはり「椎名林檎」は体感するものだろう。