永久輝せあとは原石でなく、宝石である
彼女を初めて舞台で見たとき、宝石みたいな子だな、と思った。
初見の感想があまりにも気取りすぎている気もするが、本当に、ただ素直にそう思ったのだ。
華がある。目を引く。ただそれだけだ。
が、舞台において、とりわけ宝塚という舞台において、華があることがどれだけ大切なことか。トップスターシステムを採用する宝塚において、トップスターは最も観客の視線を集める者でなければいけない。
彼女は宝塚の男役に向いているのだ。おそらく、彼女の持ちうる全てにおいて。
そして私は彼女を宝石のようだと前述したが、それと同時に彼女は原石ではない、とも感じた。
原石は磨けば光るが、まだ磨かれてはいない状態だ。
彼女は他が磨かずとも自身でその身を磨き、自分が宝石であることを誇るような自信をギラつかせて舞台にいる。
タカラジェンヌが欲しがるものを彼女は全て理解し得た状態で入団したのではないか、と思わせるくらい、不思議と彼女は舞台でどう動けば良いのかわかっているようなのだ。華、技量、どちらもある。そのようなタカラジェンヌは彼女以外にもいる。だが、彼女が宝石である所以はその才を生かす術を知っている、ということだ。
雪組新人公演「幕末太陽傳」では早霧せいなの役、佐平次を演じたが、早霧せいなと全く違う演じ方であったように思う。新人公演を本役の物真似で終わらせることなく、永久輝なりの佐平次を見せてきたことも素晴らしいのだが、何よりその佐平次がもう一人の佐平次としてそこに生きていたことが素晴らしいのだ。
彼女なりの佐平次が舞台に存在し、これが佐平次だと、その時、その瞬間だけは客に思いこませたのだ。はったりかもしれない。得意の彼女の舞台上における自信に我々は騙されているのかもしれない。
それでも「我々は彼女の魅力に騙されている」と思わないのは彼女の技量の高さにある。
揺るがぬ高い技量と人を惑わすほどの華。いとも容易く両立させてみせるのが、永久輝せあなのだ。
花組に転向する彼女は、違う舞台でどのような姿を見せてくれるのだろうか。
ゾクゾクするような期待感がこみ上げてくる。そんな私の期待など軽く裏切って新しい世界を見せてくれるのが彼女だ。
いくら期待してもし足りない。永久輝せあは、つくづく男役に、タカラジェンヌに向いている。
「雪組 退団者のお知らせ」によせて
ぼんやりと宝塚公式ホームページを開くと、そこには真に美しい名前が溢れていた。
タカラジェンヌとしての名前を掲げて生きるということは、強大な幸福と不幸を抱えて生きるということでもあるだろう。
それでも彼女たちの宝塚人生は芸名と共に始まり、芸名と共に終わる。
そんな彼女たちの”人生を懸けた文字列”に、恭しく触れる瞬間。
「退団者のお知らせ」と題されたページを開いて私が感じることと言えば、その名前の中に封じ込められた儚い美しさ。それに尽きる。
そうか、彼女たちの名前はこんなにも煌めいていたのだ。
気づくのは、いつも遅すぎて。
気づいた時には、もう満開だ。
私はただ、彼女たちの名前が最も咲き誇る時の訪れに、少しの戸惑いと、数えきれないほどの幸せを覚える。
宝塚をわざと忘れていた自分への懺悔みたいな話と花組「はいからさんが通る」感想
百億年ぶりにブログを更新しようと思った。
沸き起こる感情が止まらなかったから。さざ波を覆うような大波が起こったから。
まあ、書き始めの理由なんてどうでもいい!
だってほら、宝塚は我々の(主語がデカく見えるが、我々=ファン)文化の泉であり、心の泉だから。
https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2020/haikarasangatooru/index.html
なんかめちゃくちゃ病んでいるような書き出しではあるが、普通に元気である。ただ、畳のい草が刺さったような違和感を感じながら生活していた。だから、何となく文化を蔑ろにして(そうするしかない人も少なからずいただろう)、「キラキラ」を忘れていた。半年も。しかも、わざと。
故意的な記憶喪失です。なーんでそんなまどろっこしいことしたんだ、と考えてみた。宝塚が、「キラキラ」しすぎていた。その輝きが冷たくなった現実と乖離しすぎていて、4月あたりに映像を見ながら思ってしまったことがある。
「ヤバい、今の自分がこのまま宝塚を見続けたら、私は現状を放棄して、思考を止めてしまう」
思考を止めないために、宝塚に縋らないために、私はラインを引いてしまった。
しかし、そのライン引きは間違いだったようで。
「はいからさんが通る」を見た時、泣きはしなかったが、衝撃を受けた。それは、初めて宝塚を目の当たりにした時の衝撃とほとんど同じものだったのだ。
「脳汁弾けてる!思考なんていらん!この瞬間だけは、脳ミソ沸騰させてオペラグラスの悪魔になる!」
「キラキラ」が貶められる時代になってはいないと思う。が、「キラキラ」を自ら捨てている人は少なからずいるように思える。私のようにわざとキラキラを忘れる、とかいう強硬策に走っている人もいるかもしれない。
「キラキラ」でお腹は満たされないし、流行り病の世界で苦しんでいる人っ子一人救えない無力な自分を救うことだってできない。お金だって、消えるばかりかも。
だけど、思い出してほしい。「キラキラ」は、美しく生きることに必要だと。一度摂取した「キラキラ」を忘れることなんて、凡人には不可能だと。
「キラキラ」を浴びて、劇薬に浸って生きていこう!
こんだけ語ったが、正直れいはなの周りにマイナスイオンが漂っていたことくらいしか感想がない。鈍器で殴られたような喜びだったので、しょうがない(?)
”明日海りお”に依存する我々は何処へ(上)
明日海りおは永遠に"そこにある"のだと思っていた。
なぜか。彼女が自分自身でなく、敢えて我々に明日海りおの造形を任せたからではないか。
だからこそ今回のレビューの歌詞は私にとって衝撃的であった。ついに彼女自身が"明日海りお"の定義付けを行ったと見せかけているが、その真偽はわからないからだ。少々哲学的になってきたが、単純明快な例があるので暫しお付き合いいただきたい。
「そろそろ夢から覚める時間 そうなのかも」
主語は一見、”明日海りお”であるかのように見える。しかし、この歌詞における主語は”我々”にも代替可能なのである。しかも、明日海りおの夢から覚めるのは”さゆみさん”ということも考えられる。
夢から覚めるのが誰かは結局のところわからないが、私は明日海りおを抜きにした彼女自身と我々が”明日海りお”という夢から覚める、という仮説を打ち出したい。この仮説を考えたとき、なんておぞましい歌詞を書くのだ先生は、と思った。なぜならこの歌詞は”明日海りお”という概念はあまりにも我々の間で肥大化しすぎた、ということを証明するからである。
”明日海りお”は我々の執着と、さゆみさんの異常なまでの執着の無さからここまで大きくなった、と私は考えている。もちろん彼女の男役、花男、タカラジェンヌへのこだわりは尋常ではないのだ。しかし、さゆみさんが明日海りおであること、へのこだわりは我々が生み出してしまったのではないか。そして、さゆみさんがそれを静観していたことが拍車をその勢いに拍車をかけた。
結果、”明日海りお”はさゆみさんも我々も手の届かぬところまで大きくなった。これは我々とさゆみさんの功罪である。
この現状に終止符を打てる方法は、我々とさゆみさんの双方が同じ働き掛けをすることしか残されていなかった。
だから上記の歌詞が生まれた、と私は推測する。
そして、明日海りおはあまりにも我々にとって大きすぎたゆえ、計り知れぬ喪失感が我々を襲っているのである。
この絶望に等しい喪失感は、自分たちのせいなのだ。明日海りおを神格化しすぎた我々へのしっぺ返しなのだ。
しかし、最後まで慈悲を感じさせる歌詞でこの歌は締めくくられるのである。 (下へ続く)
柚香光という花男の異端児へ
柚香光はもちろん花男の鏡である。ファンと娘役をとことん愛で、その姿は時にこちらが恥ずかしく成る程の花男である(賛辞である)。
が、従来の花男とは一線を賀した所に彼女は今、踏み込もうとしているのではないかと私は思う。
かつての真矢ミキのように。
彼女の最近の主演作が如何に彼女が正統派でありながら、異端児になる可能性を秘めているかを物語る。
『はいからさんが通る』では眉目秀麗な陸軍少尉の伊集院忍を、『花より男子』では道明寺家の御曹司で俺様キャラの道明寺司を演じた。
美形で圧倒的センターのオーラを放つ役所である、という点では花男要素を兼ね備えているが、以前の花男が演じてきた役と違うのはやはり、はっきりとした原作の存在であろう。
そして原作を生き写すという点、これに尽きる。
正直、彼女による原作ありきの舞台化は、従来の舞台作品とは形成の仕方が違うように思える。
彼女の演技は、男役としての過剰な演出の中にリアルな男性像すら存在させる。それは、私たちの周りにもいるのではないか、と錯覚させるほどである。
その理由は一重に、彼女の緩急の付け方が神がかっているからである。
ハーフで王子のような伊集院ならば、大振りな動きをベースとしてその中に細かくて性急な動きを取り入れる。俺様で不器用、実写のイメージも強い道明寺ならば、細かくて性急な動きを頼りとし、大切なところで大振りに。というような具合である。
彼女の緩急の付け方は非現実的で現実的な、男役と男を行ったり来たりすることを可能とするのである。これは彼女が身につけた努力の結晶だ。汗と涙がこれほどまで美しく昇華された例がほかにあるだろうか。
男役として美しくあるには、実際の男性にはないような非現実的美しさを盛り込むことは必須事項だ。その固定観念を打ち砕くのが柚香光である、と私は考えている。その破壊は、良い意味で「クサい」花男を追求する者にとって痛みを伴う。それでも追求してほしい。破壊願望を彼女にゆだねてみたい。
朝夏まなとと真風涼帆の愛し方
朝夏まなとと真風涼帆の「まぁまか」コンビが人気を博したのは記憶に新しい。このコンビへの信頼があったからこそ、劇団は「朝夏まなとトップ娘不在退団」を推し進めていくことができたのだと私は思う。
では、如何にして「まぁまか」は成りえたのか。
二人は精神的には似通っているが、外見的にはかなり違っている。
これが、宝塚のトップ二番手コンビの一つの有効なあり方であり、これこそがまぁまかの肝である。
「違っているのに似ている」とは説明を補うと、「(容姿が)違っているのに(心が)似ている」となる。
まず、互いに異なった華やかさを持つので舞台で輝きが被ることはない。トップと二番手として双方の魅力が確実に機能するのはまぁまかのようなタイプである(もちろんこの手のコンビが正義というわけではなく、コンビに正解などない)。
ここまで二人の美のあり方の素晴らしさについて記述してきたが、私が本記事で一番伝えたいことは、まぁまかは二人の心と愛によって成立し得たということである。
二人が心を通わせられたのは、二人の愛が同じ質感だったからだろう。
両者共に愛を分け与えるタイプであり、どちらかと言えば自己犠牲的精神が働くような性格だと私は考えている。
そういう意味で、愛の質感が似ているのだ。二人の愛し方には親和性がある。だから、極度に互いが依存しあう関係でなく、傍から見れば非常に涼やかな関係に見える。それは、互いが互いを思いやっているからだろう。
もちろん、朝夏と真風の宝塚人生に共通点が多かったことなど、シンパシーを感じる部分は多々ある。
でも、二人は対人における愛し方が似ているから。この部分がやはり一番大切なのではないか。
自己犠牲を省みない人が唯一頼ることができたのが、奇しくも同じような自己犠牲を省みない人だったのは、皮肉にも必然だったのだろう。
お互いに都合の良い相手か、いや、そんな生半可な関係じゃないだろう。
人を愛する際に自分を蔑ろにしがちな二人が、ただ一度、自分を大事にすることができたのかもしれない。
自分を愛することで他人を真に愛することができるのだから、二人がこの世界で巡り合えて本当に良かったと常々思う。
桜木みなとの中に蠢く(うごめく)もの
私は以前、芹香斗亜の色気を「彼女自身の最適解にほぼ値する陰のある、進化の過程を見せぬもの」と考察した。逆に、桜木みなとは良い意味で、男役としての進化の形相を見せてくれる。いや、自身の進化を「見せつけてくる」と言ったほうが良いのかもしれない。
近年、彼女は「私を見てくれ」と言わんばかりに舞台で主張してくるようになったと私は思う。
まず、彼女は弟のようなかわいい後輩的存在であった。そして、優等生だった。
ゆえに、あてがわれる役もかわいらしい役や、いわゆる王子様のような役が多かったように思える。かわいい後輩的役を具体的に挙げるとすれば、『PHOENIX 宝塚!! —蘇る愛—』におけるリトル・チェリーという怪盗カナメール(凰稀かなめ)のかわいいお付き役や、『王妃の館 -Château de la Reine-』における戸川光男という桜井玲子(実咲凜音)のおっちょこちょいな部下役などがある。
また、王子様的役を挙げるとすれば、『Shakespeare 〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』のエセックス伯ロバート・デヴルー役や、『王家に捧ぐ歌』のメレルカ役などがある。
しかし、宙組公演『神々の土地』でゾバールを演じた桜木みなとはどうだろう。
ゾバールとしての桜木みなとは場面を追っていくごとに、段々と内にある沸々としたエネルギーを、魂の叫びを観客に投げつけているような気がした。強気であるのに、心の不安定さが見え隠れする。それがまた彼女の魅力を引き出している。
また、感情がむやみに暴発するのでなく、滲みでてきてしまうような演技に衝撃を受けた。セリフを発していない時の感情のうごめきの何たるや。
この時初めてわたしは、桜木みなとの中に渦巻くエネルギーを感じた。これほどまでに彼女の煮え切らぬエネルギーは魅力的であったか。
そして、極めつけは『オーシャンズ11』のテリー・ベネディクト役だろう。彼女にとってこれまでにない大役となったが、この役でまた彼女は一歩前進しただろう。
その前進の仕方が実に興味深い。彼女は成長過程を、時にもがく過程すらも見せてくれるようになったように思える。その人間臭さに、魅力を感じる。おそらく、今まではそうではなかったからであろう。
芹香斗亜も桜木みなとも陰のある色気を持つ、という点では同じである。が、決定的に違う点もある。
それは、芹香斗亜が全知全能であるかのような、常に相手に絶対零度を感じさせる色気である一方、桜木みなとは強さと弱さを併せ持ち、相手に渦巻く熱を感じさせる色気である、という点である。
桜木みなとは色気の主張の強さの中に、脆さがある。まだまだ彼女は未完成なのだ。
まだまだこんなものじゃないんだ、自分は、と舞台で叫ぶ強い眼差しと、未だ脆い部分から生まれる微笑みが同居する桜木みなとは今しか見れないかもしれない。
桜木みなとは、蠢く何かを抱えている。
優等生であるがゆえにそれを爆発させることは、彼女にとってリスキーな選択肢かもしれないが、爆発した場合もこれまた一興、ということなのではないか。